〜女人守護のお寺〜

四国霊場番外札所 安産厄除祈願所

鍬持大師総本坊 般若菩薩根本霊場


真言宗御室派
如竟山 大慧金剛密寺
吉 祥 院


歴代院家
御守・土産 納 経


歴 代 院 家


  院家について

院家とは、平安時代に宇多天皇が、出家して仁和寺に法皇として入寺さられた時、近臣の貴族が法皇に仕えるため出家して仁和寺内にそれぞれ僧坊(僧侶の住まい)を建立して住まいし、院家衆と称したのが始まりである。後に真言天台等の門跡寺(門跡とは、御門は帝に通じ、仁和寺は宇多天皇の遺跡であることから御門の跡、門跡と称したのが始まりで、以降、皇室ゆかりの特別な寺院に許された称号で、その寺の住職も門跡と称した。仁和寺は門跡寺院の筆頭格である。)の境内にある搭頭寺院の格式になり、その寺の住職も院家と呼ばれた。また、門跡が隠居した寺や兼帯住職をした寺も院家とされた。江戸時代には、地方の有力寺院にも仁和寺、大覚寺から下賜される。脇門跡とも呼ばれ、十万石以上の大名並の格式があった。当院の伝によれば、仁和寺華蔵院宮聖恵法親王より吉祥院の院号を賜ったとされているが不明な点があり、確たる証拠が無かった。そのため再建の時に、仁和寺第四十六世門跡裕信大僧正を勧請中興開山としてお迎えし、あらためて院家格の寺院とした。住職は歴代、院家と称する。
開基 延暦19年
巳卯
(799年)
空海(くうかい、宝亀5年(774年) - 承和2年3月21日(835年4月22日))は、平安時代初期の。「弘法大師(こうぼうだいし)」の名(諡号醍醐天皇921年贈〉)で著名、日本真言宗の開祖。俗名は佐伯 眞魚(さえき の まお、〈まなとも〉)。日本天台宗の開祖最澄(伝教大師)と共に、日本仏教の大勢が、今日称される奈良仏教から平安仏教へと、転換していく流れの劈頭に位置し、中国より真言密教をもたらした。
弘法大師
開山 天永2年
辛卯
(1111年)
阿波国(現徳島県)出身。七歳で出家し、諸国で修行し瑜伽乗に通ず。熊野本宮にて悉地を得たため世の人々より半権現、また阿波出身のため阿波上人と尊ばれ、白川天皇の第五皇子聖恵法親王からも崇敬を受ける。伝えによれば天永二年大師の古跡である当院を再建して開山。晩年、高野山に登り青蓮院、往生院を建立し念仏三昧を行ずる。永久二年十二月高野山大塔にて興教大師覚鑁上人に出会い、往生院に招く。以来、その高徳に打たれた上人より師と仰がれる。永久五年八月二十日遷化。
阿波上人 
青蓮房浄心大和尚
阿波上人の開山から天正五年の戦火による廃寺までの歴代院家の名前や代数は資料散逸のため不明。
勧請
中興開山
平成14年
壬午
(2002年)
昭和四年十二月十八日広島にて誕生。同十四年に宮島大聖院に於て出家得度。同二十四年京都専門学校(現種智大学)卒業。同二十五年総本山仁和寺において四度加行成満。同二十七年龍谷大学卒業。同三十八年大本山大聖院座主に就任。同六十一年より平成二年まで真言宗御室派宗務総長・総本山仁和寺執行長を勤める。平成五年に総本山仁和寺第四十六世門跡・真言宗御室派管長・大僧正に就任。同八年一月に後七日御修法の大阿闍梨を勤め、真言宗長者に就任。平成十年六月に門跡・管長を退任。同年十二月三日遷化。世寿七十才
平成十四年、現住職が当院を中興開山再建の時に、本師で仁和寺門跡であられた吉田裕信大僧正を勧請中興開山に拝請する。吉祥院は縁起によると、仁和寺宮聖恵法親王より吉祥院家号を賜ったと伝わるが詳細不明のためあらためて院家寺とするため勧請中興開山に拝請した。また、寺を再建したり新たに建てる時に、再建あるいは新寺建立した僧侶自身が中興や開山などの尊号を名乗るのは畏れ多いとのことから、自身の師や尊敬する僧侶、寺格を上げるため本山の門跡管長を中興、開山、中興開山などに拝請した。また、寺を再建したり新たに開山することは大変な功徳があり、亡き師の供養菩提のために拝請する故実があり、当院も大僧正の法嗣である大本山大聖院座主吉田正裕僧正からご許可を頂き、大僧正の御位牌を賜って吉祥院勧請中興開山として拝請する。
裕信大和尚
中興
第二世院家
同年
当院は伝えによると、お大師様が建立され庵が、戦国時代に兵火にかかり廃寺となったと伝わっております。その伝説の庵を愚僧が再建した小さなお寺で、本堂も粗末な仮本堂ですが、皆様の心のお寺になれるよう日々精進しております。

現住職